ペトリ皿
水が飲みたくて飲みたくてたまらない。
その男は悲しいことがあると水が飲みたくてたまらなくなる。自宅の台所でその男とお茶を飲んでいたのだが、一瞬目をはなすと、男の姿は消えてなくなっていた。
そして、男が座っていたイスには理科の実験で使うペトリ皿が置かれていた。
よく見ると、ペトリ皿に浮かんでいたのは男の顔であった。ペトリ皿に浮かんでいる液体は、間違いなくその男そのものだ。
男は苦悶の表情を浮かべている。次第に鼻や口などの部品が肌色の液体に溶け出し、ついに瞼と睫のみとなってしまった。
驚いた私であったが、次にその液体から大量の泡が発生していることを確認した。よく観察してみると硫酸が物を溶かしている状態と似ている。この液体(男)は硫酸に似たものであるということがわかった。
辻褄があう。
彼がしきりに水を欲していたのは、彼の体が硫酸のようなものでできていたからであり、今起きているこの溶解作用の末液体自体が昇華してしまうといった状態を恐れていたからである。硫酸に水を加えて希硫酸の状態にすれば溶解作用は収まり、男の液体化も元に戻るのではないか。
私は台所の蛇口をひねりコップ一杯の水をペトリ皿に注いだ。一瞬溶解はおさまったように見えたがすぐに作用はもとの状態にもどってしまった。水が足りないのだ。あせる私は何度もコップに水を汲み男に注いだ。ついには先ほどまで飲んでいた冷たいお茶をも注いでいた。
なんとか溶解作用がおさまり、ほっとした私はふと目をペトリ皿からそらすと、彼のイスにペトリ皿はなく、コップのお茶に手を伸ばす彼の姿があった。
「どうもありがとう・・・・」
彼はそう言って私の家から去った。